VCA新聞 コラム vol.8「活字のお話」 by Kennyキムラ
VCAで新聞的なことを始めようと言うことでの2周目。相変わらず好き勝手なことを書くことにする。
タイトルは『活字のお話』。
いつの頃から「活字中毒」である。
いつの頃…と書いたが、なんとなくこの辺から、という目安はある。
大学を卒業して、初めて就いた仕事が音楽産業の業界。私はインペグという仕事を新卒で始めた。インペグ…といわれても、世間一般の人はきっとポカンとするだろう。簡単に言えば、レコーディングのコーディネーター。
当時はコンピュータがない時代。レコーディングの現場では、いわゆるスタジオミュージシャンと呼ばれるプロの演奏家が、実際にドラムだのギターだのという楽器を弾いて録音を行う。本来はレコード会社がそれらのセッティングをするのだが、それに代わってスタジオを押さえたり、プロのミュージシャンをアサインするというのがインペグ屋の仕事。現場…つまりレコーディングスタジオへ行って、アサインしたミュージシャンがちゃんと現場に入っているかを確認する。もしアーティストとかアレンジャーが「こいつは気にくわない!」なんてことになったら、急遽別のミュージシャンをアサインするなんていう対応もする。無事に録音が終わったら、演奏してくれたミュージシャンに対して、レコード会社に代わってギャラを支払ってあげる。ミュージシャンというのは日雇い労働者なので、取っ払いの現金をレコード会社に変わって立て替えるのである。
そんなわけで、スタートから終了まで20時間くらいスタジオに張り付くわけである。そこでただじっと座って待っているわけでもなく、別の日の現場のセッティングだのアサインだののために、ミュージシャンとかスタジオとか事務所に電話をかけまくるのも、これまた大きな仕事。
今の時代と違ってスマホなどはない。スタジオの端に備えつけられたピンクの電話を一日中陣取り、10,000円分くらいある10円玉をそこに積み上げて、ひたすら電話をかけまくるのだ。ひとりの予定が合わないと全部一からやり直し、なんてこともザラである。アーティストの気まぐれで直前キャンセルなんての当たり前。毎日毎日、理不尽と戦うのも仕事の一つなのである。
さて「活字中毒」という話から大きく反れているが、徐々に戻していく。
当時は、電話をかけられる時間帯というのも決まっていた。今だと個人が一台スマホを持っている時代なので、夜中だろうが早朝だろうが、誰かに迷惑をかけることもなく特定の個人を捕まえられる。さらにメールだのLINEだのメッセージだので、時間なんざ関係なくやり取りすることができる。しかしあの時代は、一応のモラルというものもあったので、21時を過ぎたら電話かけは終了。やっと一段落できるわけだ。
スタジオのソファに座って、やっと自分の時間となる。
あのときは1ヶ月で10万というクソみたいな月給だった。そんな中から購入した「Sound & Recording Magazin」「Guitar Magazin」は、毎月表紙から裏表紙まで徹底的に何度も読むのである。時はアナログからデジタルに移行するような時代だったので、レコーディング業界のネタは百花繚乱であった。
YAMAHAのDX-7がサウンドの幅を変え、リバーブがアナログからデジタルになって録音現場の音がどんどん華やかになっていった。そんなネタが「Sound & Recording Magazin」に毎月満載されていたのである。
とにかく、インペグ屋をやっている1年弱の間は、この「Sound & Recording Magazin」「Guitar Magazin」を熟読しまくっていた。それが「活字中毒」の始まりだったと思う。
そこから弾みがついたのか、活字は自分にとって大きく身近なものになった。
子供の頃から本を読むのは好きな方だったが、中毒とまでは行かなかった。読んでも雑誌とかマンガくらい。インペグ屋を辞めてからは、毎日本屋をはしごしてありとあらゆる本を立ち読みしまくった。もちろん図書館へもけっこうな頻度で通っていた。
そもそも私の祖父の職業は、朝日新聞社の記者である。戦前は宮内省の皇族付きの記者として、ほぼ毎日皇居内の記者クラブにいた人物である。私の中には活字というDNAが刻み込まれているのである。ひとたびそのDNAが花開けば、そこから先は噴出する一方である。
インペグ屋をやめてしばらくすると、運良くリクルートという会社に紛れ込むことができた。
そこでは、今の仕事に直結している映像制作の仕事をやりはじめた。さらには、出版関係をメインにしていた会社だけあり、ワープロだの出始めのパソコンだのが使い放題だった。ワードプロセッサーという文字を打つ専用コンピュータが全盛期。さらにNECの9801というパソコンに「一太郎」というワープロソフトが準備されていた。そんな文字打ちのおもちゃに夢中であった。当時の誰よりも早くキーボードのタイピングもそのときにがっつり覚えることができたし、パソコンの基礎的なものも一通り覚えることができた。社内では映像制作の傍らで、自作の小説とか曲の作詞とかを、おもちゃを使って書きまくった。とても人に見せられるものではないが、発想力を鍛えるとか文章化するというような基礎を、この頃に自然と身につけたのだろう。
現在、本業は映像制作なのだが、それには台本とか脚本とかシナリオ(みんな同じ意味)が必要になる。その手前に企画書みたいなものも書く場合もある。実際の映像制作に取りかかる前の、こういった一連の作業が基本的には大好きで、企画-構成-シナリオまでを自分でやってしまう仕事が多い。
ふつうの映像制作の現場だと、撮影前の作業(プリプロとか言う)で文字を書く専門家、いわゆる作家を「先生」などと呼ぶわけだが、全部ひとりでやってしまう自分にとっては「センセイ?」みたいな感じがしてならない。
ま、分業にした方が良い結果になることもよく知っているので、それ以上は言わないでおこうかな。
年齢を重ねていくと、現場作業がどんどんつらくなっていく。まずは目が見えなくなってくる。体力も落ちてきて現場がきつくなってくる。無理が利かないので編集作業では睡魔との戦いで、敗れることもしばしば。さらには都心が中心となる仕事ゆえ、東京から離れられなくなっている。いつまでこの状態を続けなければならないのか?まあでも、好きでやっていることなので、それほど苦ではないのだが、いずれにしても第一線を退く準備をしなくてはいけないお年頃になってはきた。
理想を言えば、文字を書くという仕事だけで、これからの生計が立てられるのであれば、終活に向かう自分としては願ったり叶ったり。都会の喧噪を離れ、場合によっては日本を離れて、のんびりとした場所で、インターネットを使って文字を書くというような仕事ができるのなら幸せかなと思ったりする。
とは言え、所詮〆切人間なので、〆切間近にならないと仕事を始めないという悪いクセは治らなとは思うが、一方でいつまでもざわざわしたところに住んでいたいとも思っていない。企画力も表現力も想像力も文章力も、きっと人より多めにあると自負はしている。
なのでどなたか、文字だけで食える道に導いてくださいませ!
と、最期は他力本願で締めくくっておきます。
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